第1回「世田谷の中心地だった 豪徳寺と世田谷代官屋敷周辺」

今回の散歩は、世田谷八幡神社を起点に、豪徳寺、世田谷城址、代官屋敷など、古き良き世田谷の散歩の楽しみをご案内します。



散歩のコース


東急世田谷線・宮の坂駅-①世田谷八幡宮-②勝光院-③豪徳寺-④世田谷城址-⑤天祖神社-⑥浄光寺-⑦代官屋敷-⑧円光院-⑨大吉



東京・世田谷の歴史を探訪しながら、散歩コースの各史跡・寺社を紹介します。それには先ず、世田谷の地誌と歴史からお話ししましょう。


◆世田谷村の地誌と歴史

 往時の世田谷郷とは、下記の地図の様に42の村から成り立っていました(赤塗りの字が村名です)。その世田谷郷の中で世田谷村は中央にあり、地図の中の緑色に塗られた部分です。地図の村中は更に30程の大鶏山、竹ノ上等の小さな集落に分れて居り、これらの小集落を「子字(こあざ)」と呼んでいました。世田谷郷の中でも可なりの面積を占め、更に古い時代には南隣の新町、弦巻村も含んでいたと言われています。

 地形的には武蔵野台他の標高30~40mの台地上にあり畑が多く田は少ない地域です。「世田谷」の地名は郷内低地の瀬田の耕地で採れた米を伊勢神宮に納めたので「伊勢田」から「勢田峡(せたかい)」「世田谷」になったと言われています。当時から村内を大山道、滝坂道、登戸道、六郷田無道、鎌倉道が通っていました。今回は旧世田谷村の東半分・室町時代に吉良家の城があった小字大鶏山、城下町のあった元宿地域を散歩します。

 旧世田谷村は、室町時代以後明治まで吉良家と関係の深い土地でした。吉良家の領地の時代は小田原北条家と親密になり無事8代240年を過ごしますが、1,590年に豊臣秀吉により北条家が亡ぼされ、これと同時に吉良家も滅亡しました。以後江戸時代は徳川領、更に彦根藩井伊家の領地となり、歴代大場家が代官で安定した政治を行いました。明治以後は彦根県、品川県、東京府を経て昭和7年世田谷区となったのです。住宅地として発展したのは関東大震災と玉電、京王、小田急の開通以後のことです。昭和41年、住居表示による地域整理で、旧世田谷1~4丁目が世田谷、豪徳寺、宮坂、梅丘の各1~4丁目に細分化され現在に至っています。


旧世田谷郷42村と世田谷村の地図




① 世田谷八幡宮

宮の坂駅を降りて踏切の道を左に行き、立派な鳥居を潜って長い石段を山の上に登ると写真の様な世田谷八幡宮の拝殿が現れます。この神社はもと宇佐神社といわれ世田谷郷の総鎮守でした。平安時代の寛治年中に奥州征伐の帰途源義家が勧請したのに始まり、吉良頼康によって再建されたと云われています。また、ここでは江戸時代から「江戸の三相撲」の一つとして祭りの日には大掛かりな奉納相撲が行われ、今も続けられています。


世田谷八幡 拝殿

豪徳寺 仏殿

豪徳寺 法堂(本堂)



② 勝光院

世田谷八幡宮を出て、世田谷線に沿って上町の方に歩くと、吉良家代々の墓所のある勝光院があります。墓地は山門を入ってすぐ左手にあり、古い五輪の形を止めて世田谷文化の発祥とまた変遷を見ることができます。

 建武2年(1,336)初代・吉良治家の開基で、開山は建長寺の吟蜂竜公です。そののち、天文15年(1,546)7代・吉良頼康が中興開基となって、ここに葬られました。元は臨済宗で金影山竜鳳寺といい、のち興善寺と改め、更に吉良頼康の戒名の『勝光院』に改めました。本尊は虚空蔵菩薩です。江戸幕府ができると直ちに、徳川家康から寺領36石を与えられました。世田谷では最大の格式です。

勝光院 境内


③ 豪 徳 寺

勝光院を出て世田谷線の踏切を渡り北へ進むと、立派な参道を経て豪徳寺の山門前出ます。

曹洞宗・大谿山洞春院と称し、本尊は阿弥陀3尊です。文明12年(1,480)吉良家5代政忠が、伯母、頼高の娘、弘徳院久栄理椿大姉の為に創設し、当時は浄土真宗・弘徳院と言われましたが、其の後天正12年(1584)に、浄土真宗から曹洞宗に改派しました。寛永15年(1848)には井伊家が大檀那となり、総ての殿舎堂閣に修理等を加えたので、その荘厳は大変盛んなものとなりました。この井伊直孝を中興開基とし、その法号・久昌院殿豪徳天英居士から名を貰って寺号も豪徳寺と改めました。


豪徳寺 仏殿


豪徳寺 法堂(本堂)


豪徳寺 境内図


④世田谷城址

 世田谷城は、台地の突端を利用した豪族の館といった風な建物でした。北、西、南が外堀で囲まれ、その中に内堀があって、城内は東の丸、南の丸、西の丸に分かれ、鳥山川の入り組んだ湿地(水田)や、雑木林、森林を利用した城で、当時は豪徳寺も含めた広い城でした。館の外部には、勝国寺、円光院、の他勝光院、世田谷八幡も城の備えの一部でした。又防備の一つとして要所に竹林を配しましたが、これは敵からの遠望をさえぎり、いざという時には敵の人馬が進めないようにする為の物で、今も豪徳寺、勝光院などには見事な竹林が残されています。


⑤天祖神社

 世田谷城址から南へ300m程歩き世田谷線を上町駅踏切で越えると、世田谷通りのすぐ南のボロ市通りに面して天祖神社があります。この神社の祭神は天照大神で、昭和41年2月に世田ケ谷町が、桜、桜丘、宮坂、豪徳寺、梅丘、羽根木に分轄された時から、世田谷町の氏神様になりました。昔は境内が広々としていて樹木の多く、社殿は今の鳥居の位置にあり、社務所はその裏にあったということです。9月第2土・日曜日が秋の大祭ですが、夏休みには境内で小学生の相撲が行われたり、ボロ市の日には見世物小屋が立つ等、人々と深くつながりをもつお宮です。

⑤ 浄光寺

天祖神社の更に南に浄光寺があります。九品山往生院といい、浄土宗で、本尊に阿弥陀如来坐像が祀られています。代官屋敷の裏手に当り、創建は文安元年(1444)です。墓地には世田谷代官の祖、大場越後守信久以下大場家歴代の墓が並んでいます。本尊の他に観音菩薩像、地像菩薩像、釈迦誕生仏、薬師如来ほか多くが祀られています。


⑥ 代官屋敷

江戸初期に井伊氏が世田谷村の領主になった時、彦根藩世田谷額20か村を治める為に元吉良家の重臣で帰農していた大場市之丞を、世田谷代官に指名し、此の地に代官屋敷を建てました。代官の仕事は年貢米の納入を始め、井伊家屋敷の祝儀用品や野菜を納める勝手方御用と、領内での検察や裁判などの現在の警察業務でした。大名領代官屋敷として都内唯一のもので、その由緒により昭和27年都史跡に、また同家所蔵の古文書は都有形文化財に指定されています。現在残っている主屋と表門の2棟は、主屋は茅葺木造平屋建て、建坪約68坪あり(玄関、次の間、役所の間、代官居間、切腹の間、名主の詰所等当時の面影を留めている)改築の記録としては元文2年(1,737)建て替え、その後宝暦3年(1,753)にも居宅や書院座敷の改修をしています。写真は表門です。

代官屋敷の敷地内には、昭和39年、区制30周年記念事業のひとつとして建設された郷土資料館があり、区内から発掘された所蔵物は、縄文・弥生・古墳時代の石器・土器・刀剣類など考古資料をはじめ、中世以後の古文書など約2万点にものぼります。


⑦ 円光院

 代官屋敷を出て、ボロ市通りを東へ200m程歩いて世田谷中央病院の角を左折し、世田谷通りに出ると円光院前に出ます。浄土真宗豊山派、青瀧山勝国寺と称し、本尊は不動明王です。天正年間(1573~91年)の創建ですが、明治の初めには廃寺になる所を、檀家の強い願いで明治26年に再興後、大改修工事が行われ、現在に至っています。


⑧大吉寺

 円光院の隣が大吉寺です。浄土宗で、本尊に阿弥陀如来を祀るほか正観音菩薩、釈迦誕生仏等を祀っています。初めは吉良氏の祈願所として真言宗に属しましたが、天文18年(1549年)に品川大吉寺長老在誉上人や江戸周防守らが発起して、吉良家家臣の道場だった泉沢寺の再興を図って烏山から上小田中の地に移轉し、後中興開山・緑誉超察が品川の御殿山から、この地に移したと言われています。この寺の前住職は作家として有名な寺内大吉で、此処で寺内大吉が発行していた「近代説話」の同人には、司馬遼太郎、黒岩重吾、伊藤桂一、尾崎秀樹、海音寺潮五郎、永井路子、今東光らが居り、後日司馬、寺内、黒岩、伊藤、永井の5人が直木賞を受賞したので、文壇の日比谷高校と迄云われました。境内のすぐ裏が終点の世田谷駅です。


いかがでしたでしょうか? 歩くと約2時間、帰りは世田谷線「世田谷駅」からお帰り下さい。世田谷区の歴史を、少しでも味わって頂ければ幸いです。



東京散歩

郷土史家・酒井東海雄が、世田谷やかつての江戸など、日頃歩いている散歩コースと土地にまつわる歴史をご案内します。

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