第2回「下北沢の散歩」

今回は世田谷八八幡でも随一の八幡様である「北沢八幡」を中心としたコースをご紹介します。ルートは小田急線・下北沢駅から世田谷代田駅までとなります。途中に出てくる北沢川緑道は桜のきれいな場所ですので、花をめでながらの散歩にも最適です。


小田急線・下北沢駅-①森巌寺-②北沢八幡-③坂口安吾の門-④北沢川緑道-⑤喫茶店・邪宗門-⑥円乗院-⑦代田八幡-小田急線・世田谷代田駅



今回の散歩道 MAP

◆小田急線・下北沢駅

 では、先ず「しもきた」と呼ばれ、三軒茶屋の「さんちゃ」と共に世田谷区の繁華街の双璧でもある、「下北沢駅前」からご案内しましょう。

 「しもきた」は「三つの顔」を持って居ると言われています。先ず第一は「文士村」としての「しもきた」です。上の図をご覧ください。赤丸のマークがしてある所は、何時の頃かに有名な「文士」が住んでいた場所で、この地図内だけでも20を数えます。中でも有名な文士・作家をあげれば、

萩原朔太郎、横光利一、大岡昇平、斎藤茂吉、坂口安吾、田村泰次郎、菊田一夫、宮脇俊三等、女性では、宇野千代、森茉莉、中村汀女、大谷藤子、萩原葉子等、実に錚々たるメンバーです。

 「文士村」と言えば、まず東京の馬込、田端、鎌倉を思い出しますが、下北沢もこれに次ぐ多さです。なぜ此処に多くの文士が集まったかと言うと、昭和3年に文豪の祖と言われる北原白秋が田端からこの地図よりやゝ南ですが若林村に移って来ました、彼を追って萩原朔太郎、宇野千代といったその弟子達が続々とこの若林、北沢地区に移って来たのです。更に昭和12年には小田急と井の頭線が開通した下北沢駅は、新宿・渋谷に直結した便利さ、近代文化性と、まだその頃は広々とした田園や田舎道の残った自然とが織り混ざった、魅力的な土地であった為と言われています。

 第2の「しもきた」の顔は「駅前のヤミ市」があげられます。昭和20年~60年頃迄は、まだ小田急・下北沢駅の出口付近の南北一帯に、戦後直ぐに出来た「ヤミ市」が残っていて、小さな店でアメリカ製の珍しい物品や菓子などを安く買う事が出来る土地でした。これは、戦後の昭和20年の戦後に、その頃でも高台にあった高級住宅が多数米軍に接収されました。そしてその頃戦災を受けて焼け野原になった小田急駅前に小さな店の集まった「ヤミ市」が出来て、米軍の兵士たちが

米軍専用のデパートであった「XP」で安く買った品物をこの「ヤミ市」に大量に流したのです。

「ヤミ市」の店主達は、その後も何らかの米軍ルートを持ち続けて「アメリカ物」を安く売り続けましたが、平成の時代になって小田急の駅が地下駅に変わる時、これらの店も総て撤去され「ヤミ市」は無くなりました。

 第3の「しもきた」は、平成以後の現代の「しもきた」です。1,990年から始まった小田急・下北沢駅の地下化工事は8年の長年月を掛けて、「しもきた」駅前と街をすっかり変えて仕舞いました。かつての「ヤミ市」のあった場所は、瀟洒な駅入り口と駅前広場に変わり、「しもきた」の街も「演劇の街」「若者の街」に変わりました。今回歩く「散歩道」も「本多劇場」前や茶沢通りまで続く「しもきた商店街」も、どちらかと言うと「若者向きの店」が多い地区となりました。


① 森巌寺

「しもきた商店街」を南に300m程歩くと、道は角に庚申塚のある6又路で、真っ直ぐ行くと広い「茶沢通り」に出ます。この通りは両側が殆ど住宅街ですので、これを左折して更に東へ進み、急な坂の手前で細い道を右折します。この道は左側は殆どが崖で曲がりくねって南下している昔の「森巌寺川」の名残で、最後は「森巌寺」の境内にぶつかります。現在の茶沢通りは、近年に森巌寺川の河原の広い部分に付けられた新道なのです。境内に沿って南下して広い道を東に20m程行くと「森巌寺山門前」に出ます。


森巌寺 山門

この山門前には、上の写真のように「淡島大明神」の石碑と「お灸の森巌寺」の看板が見られます。山門をくぐると、すぐ左側に別な参道があり、その奥に鳥居と二間四方位の立派な神社があります。これが前節の「森巌寺」の所で説明した、持病の腰痛に悩まされていた当時の存廓和尚の夢枕に立ってお灸をすることを霊示した、故郷でもある紀州の淡島明神が祀られています。お寺の境内に神社が祀られていることは、室町時代から続いていた「神仏習合」の習慣が残っていたことを示しています。この参道沿いには、これも前出の「針供養の石碑」もあります。

 境内の左側には現在は結構大きな幼稚園があり、右側は寺務所でその奥に6間四方のこれも大変に立派な仏殿があります。仏殿の周囲は、何れも300年以上と思われる樹木の森林になっていて、賑やかな「しもきた」の町中に居ることを忘れるほどの広さと静かさです。森巌寺がこの地に創建されたのは慶長13年(1,608年)で、開基は徳川家康の次男・結城中納言秀康が位牌納地を委嘱した存廓和尚ですから、丁度徳川幕府が「別当寺」を広めて居た時期と重なり、存廓和尚は「七沢八社随一」の「北沢八幡」の隣を選んで、自ら「別当寺」になった、と考えられないこともありません。


② 北沢八幡社

森巌寺の山門ではなく東側の横門を出ると、道一つ挟んで隣の「北沢八幡」の境内に入り、20段ほどの石段を登ると「北沢八幡」の境内に出ます。拝殿は、そこから更に15段ほどの石段を登った山の上にあります。現在の拝殿は6間間口、幣殿、本殿の付いた八幡造りの立派なものですが、恐らく大正6年(1,917年)に改築された建物と思われます。

拝殿の前の石垣の端に立つと、現在でも直下の北沢川から遠く烏山川、三軒茶屋の辺まで見渡せて、標高で言うと30m位、世田谷北部の高地である「荏原台地」の最南端に当る大変眺めの良い所で、八八幡の中では「世田谷八幡宮」に匹敵する程の眺めです。室町中期にこの八幡宮を、当時の世田谷領主・吉良頼康が世田谷北辺の守護神として盛大に祀ったのも、此の地に立って素晴らしい眺めを見たことと、此の地が南は北沢川、西は森巌寺川、東も北沢支流の小沢に囲まれた、本拠の世田谷城と変わらない程の要害の地であることを見抜いたからに違いないと思われるほどです。

参拝を終わって石段を下りるとそこは200坪程の広い境内で神楽殿や社務所等のある広場、更に30段ほどの石段を下ると立派な石の鳥居があり、此処が境内の南端です。


北沢八幡社 鳥居

鳥居を出て南へ100m程歩くと北沢川に出ます。橋を渡り右折して北沢川沿いに更に50m程歩くと対岸の代沢小学校校庭の一画に「坂口安吾文学碑」があります。


坂口安吾の門

③ 坂口安吾の門

 坂口安吾が当時第2荏原小学校の分教場だったこの代沢小学校に代用教員として勤めていたのは大正14年(1,925年)20才の時でした。そして小学校のすぐ前の文房具屋の2階に下宿するのですが、その下宿屋の娘にほれ込まれて、ほうほうのていで逃げだし、代田の方の小さな家へ移ります。その家の煉瓦造りの門が残っていて、それが上の写真のような遺跡として残っているのです。後に「無頼派」の名で有名になった坂口安吾ですが、『風と光と二十(はたち)の私と』という作品の中で、その頃の北沢を次のように述べています。

 「私が代用教員をした所は、世田谷の下北沢という所で、その頃は荏原郡と言い、まったくの武蔵野で、私が教員をやめてから、小田急ができて開けたので、その頃は竹薮だらけであった。本校は世田谷の町役場の隣りにあるが、私はその分校で、教室が三つしかない。その学枚の前にアワシマサマというお灸だかの有名な寺があり、学枚の前に学用品やパンやアメダマを売る店が一軒ある外は四方はただ広茫かぎりもない田園で、もとよりその頃はバスもない。今、井上友一郎の住んでいる辺りが、どうもその辺らしい気がするのだが、あんまり変りすぎて、もう見当がつかない。その頃は学校の近所には農家すらなく、全くただ広々とした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹薮と麦畑で、原始林もあった・・・」当時の下北沢近辺の様子が、良く解ります。

 彼を作家として有名にしたのは、昭和21年4月に雑誌「新潮」に掲載された『堕落論』でした。同時期、太宰治や織田作之助らと共に「無頼派」と呼ばれ、戦後文学の先行者の一人となりました。

 

 ここから、茶沢通りを横切って西へ進むと、北沢川両岸が立派な「北沢川緑道」となります。

④ 北沢川緑道

ここから西の北沢川緑道は、中央を細いながら綺麗な川筋が付けられ桜並木が続きます。緑道を西に100m程歩くと鎌倉橋があり、その両側に続く細い道が旧鎌倉街道です。鎌倉時代の昔に源頼朝が有事に兵を集めるために鎌倉から四方に向けて造った街道の名残で、現在も北は笹塚、南は西太子堂迄残っている様です。この鎌倉橋を左折して南へ150mほど歩いた所にある次の拠点「喫茶店・邪宗門」を往復して緑道に戻り更に西へ行くと、北側は荏原台地の崖を登る急な坂道で、所々に「文学の道」の看板があり、これを北に辿って行くと、先述の「文士」の誰かの旧家に行ける案内板です。緑道を15分程歩くと右に広大な「円乗院」が現れ、その門前の看板には昭和初めに北沢川を暗渠にした時の写真があり、昔の北沢川は2m幅の立派な川だった事が解ります。


⑤ 喫茶店・邪宗門

皆様は森鴎外の娘に「森茉莉」という作家が居たことを御存じでしょうか? 森茉莉は、かの

有名な森鴎外の娘で、姉の小堀杏奴(あんぬ)と共に、知る人ぞ知る有名な作家です。ここで「邪宗門」という余り聞いたこともない喫茶店を訪ねるのは、かつて此の「邪宗門」の一画が、作家・森茉莉が自分の書斎代わりに使って居たという部屋が、今でも残っているからなのです。

茉莉は、二度の結婚に失敗した後文学を志ざし、昭和32年に父鴎外を描いた『父の帽子』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞、その後の随想集『靴の音』や小説『贅沢貧乏』『枯葉の寝床』『悪魔の仔たち』などを書き一躍文壇の有名人になりましたが、彼女は淡島のバス車庫近くの奥まった路地裏にあった小さなアパート「倉運荘」に22年間住み、ここで多くの作品が書かれました。

 茉莉は淡島のおんぼろアパートから毎日、北沢の喫茶店・邪宗門に通い、1杯のコーヒーで一日中ねばって原稿を書いたり、時にはここで人と会ったりして、つまり喫茶店が書斎であり応接室だったのです。ある時、同じ通りにある菓子店の風月堂で、兄の森於莵(おと、変な名前ですが、鴎外は留学したドイツにかぶれて、子供にオットー、アンヌ、マリー、ルイ等の名を付けました)から来た手紙を落としてしまい、そこから噂が噂を呼んで、忽ち下北の有名人になってしまったと言います。邪宗門では、時には不良少年達が騒いでいる隣の席で、手提げから取り出した、くしゃくしゃの原稿に手を入れたりして居ましたが、彼女のことを気にする者は誰もいなかったと言います。下北時代の自伝を書いた「贅沢貧乏」の出だしを紹介しましょう。

「牟礼魔利は、自分の部屋の中のことに関しては、細心の注意を払っていて、そうしてその結果に満足し、独り満足の微笑いを浮かべているのである。魔利の部屋にある物象という物象はすべて、魔利を満足させるべき条件を完全に、具えていた。空罎の一つ、鉛筆1本、石鹸一つの色にも、絶対にこうでなくてはならぬという鉄則によって選ばれているので、もし人から紅茶茶碗、匙、洋盃(コップ)の類を貰ったとしても、それは捨てるか売るより他になかった。原因は魔利という人間が変っているということの一事につきるが、それを幾らか解るように分解すると、次のようになる。  

 魔利は上に「赤」の字がつく程度に貧乏なのだが、それでいて魔利は貧乏臭さというものを、心から嫌っている。反対に贅沢と豪華との持つ色彩が、何より好きである。そこで魔利は貧相なアパートの6畳の部屋の中から、貧乏臭さというものを根こそぎ追放し、それに代るに豪華な雰囲気をとり入れる事に熱中しているのである。方法はすべて魔利独特の遣り方であって、見たところでは、何処が豪華なのか、判断に苦しむわけである。見る人が芸術に関係する職業の人である場合は、楽しんでいる部屋なのだな、ということは解る。だが何処が豪華なのか、ということになると、首を捻るよりない。」まあ、こんな調子が延々と続きます。矢張りこの人の持って生まれた天性と言うのでしょうか、どこか間が抜けて居て、読んでいて結構楽しくなるから不思議です。


喫茶店・邪宗門

※現在は、毎日の営業とはなっていないので、訪れたい方は営業日を確認ください。

「北沢川文化遺産保存の会」の事務局にもなっているので、そこで作った文化地図も貰えます


⑥ 円乗院

 喫茶店・邪宗門から再び鎌倉街道を北沢川緑道まで戻って西に15分程歩くと、緑道は広い「環七道路」にぶつかって終わりになり、その環七との角に結構広大な「円乗院」が現れます。円乗院は先述の通り江戸時代初期(1,625年頃)に所謂「代田七人衆」が建てた寺として有名です。

円乗院 参道

⑦代田八幡

愈々「下北沢の散歩道」最後の訪問地「代田八幡」です。代田八幡は前述の通り、天正19年(1,591年)頃、旧吉良家の家臣・代田七人衆によって創建され、その後、天和元年(1,681年)に、七人衆が往みついた本屋敷の真北の台地である現在の地に新社殿が建立さたと言われます。従って最初の社殿は、現在の円乗院の北隣か更に北の現在の小田急線・世田谷代田駅付近にあったと考えられます。現在の代田2丁目の真中辺りです。八八幡が何れも七沢の畔にあったとの伝承からすると、この代田八幡は「代田川の畔」にあった筈です。では、その代田川とは何処でしょうか。

実は明治以前迄、この付近を「散歩道案内図」に示すような「ダイダラボッチ川」と呼ばれる小流が流れていました。井の頭線・新代田駅の少し北の「ダイダラボッチ池」を源流とする川で、そこから現代田6丁目、代田2丁目を流れ森巌寺川に合流していた川で、後に略して「代田川」と呼ばれていました。代田八幡はその川の畔にあったのです。その池には次のような伝説がありました。

 「昔々の大変寒い冬の終わりの頃です。春に向かって、ますます冷えた空気が、丘も森も屋敷も畑もかこい、ふるえあがる日が続いたある日のことです。北風がピタリと止まり、南国のような日ざしが一杯に畑を温め始めました。その日は、しばらくぶりに富士も浅間も日光の山脈も見える雲ひとつない日でしたが、不思議な事に男体山と浅間山の頂に棹をかけて、大きなモメンの着物が干されていて、その干しものが北風を防いでいるのが誰の眼にも見えたのです。

「風よけは着物だ。一体誰のものだ。」「巨人が洗濯して、干し忘れたのだろう。」などと噂しながらも、皆恐ろしくて家の戸を堅く締めて見守りました。その宵の事です。夜中に代田村の丘と荒地を、のっしのっしと音をたて歩きまわる大男が現れたのです。代田村の人たちが雨戸を細めにあけて見ると、月光のもとで巨人がタスキがけでモッコをかつぎ、せっせと畑や田をつくっているのです。巨人は夜なべで働き続け、朝になって日がさすと共にどこかに消えてしまいました。夜が明けて見ると、今までは雑木と畑の台地だった代田村が、一夜のうちに大きな窪地ができ水も湧いて立派な田圃が出来ていました。巨人が一夜で広い田圃を拓いてくれたのです。

次の日、代田で夜中に見た巨人は、筑波山に腰をかけ、長いキセルを浅間山の煙で火をつけ煙草をうまそうに吸いながら、黙って代田の方に顔を向け、にっこりと笑っていました。この広い田圃は、巨人の足跡に水が溜まって田圃や池になったのでした。その後村の人達は、この池を「ダイダラボッチ(大田法師)池」と呼ぶようになったと言うことです。」

 と言う伝説です。「ダイダラボッチ」伝説は全国の方々にあり、特に長野善光寺裏の戸隠高原の「ダイダラボッチ」が最も有名ですが、この世田谷にも「ダイダラボッチ」が居た事を覚えておいて下さい。


代田八幡 鳥居

◇終点・小田急線・世田谷代田駅

 最後の「代田八幡」の参拝が終わったら、東門を出て環七通りを跨線橋で渡り、50m程東へ歩くと、終点の「小田急・世田谷代田駅」に着きます。この駅も現在は地下化されていて、エレベーターで下ると、地下3階に小田急のホームに出ます。

 然し最後に、もう一つ見て置きたい「散歩道」があります。駅の西口から西へ環七道路を越えて坂道を下りながら50m程行くと、左側のぽっかりとトンネルの出口と小田急のレールが現れます。そのトンネル出口の上が小公園になって居て、その西端のコンクリート手摺の所迄行くと、その先左側一帯は、梅ケ丘、代田、若林一帯の低地が遥か彼方まで見渡せます。勿論、総てが街並で緑地は所々にしか見えませんが、その広大な景色は一見の価値があります。

 ここで、世田谷の街並を充分に眺めたら、後は世田谷代田駅から電車に乗って、今日の「北沢・代田の散歩道」は終わりです。

 皆様、如何でしたでしょうか。文人も多く住んでいた世田谷。七沢八八幡とは違う面でも楽しめる散歩道です。

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