【基礎編】世田谷の歴史を探る

◇世田谷七沢・八八幡の散歩◇


世田谷には沢と八幡様が多い。
世田谷区のルーツを探る

◆世田谷七沢、八八幡とは?

世田谷には沢が多く、その沢沿いには昔から「八幡様」が多く祀られていました。

何故この様に「八幡様」が多いのでしょう? それは昔世田谷郷の殆どが源氏の後裔である吉良氏の領地だったので、源氏の守護神の「八幡様」を祀ったからです。「八幡様」を例にとっても、世田谷には8社(実際は14社)もあり、その横の繋がりを調べると色々な郷土史が解ってきます。

皆様は、上記の様な神社の掲額をご存じですか? これは下北沢にある「北沢八幡」のもので「七沢八社随一正八幡宮」と書かれています。この「七沢八社」とは、当社の由緒書によれば、「北沢、上馬引沢、下馬引沢、深沢、奥沢、池沢等に祀られている八幡社と世田谷八幡の八社を言う」となって居ますが、私が調査した結果では、下北沢、代田沢、馬引沢、深沢、奥沢、上北沢、廻沢」の七沢である事が解りました。

その中でも、「北沢八幡」は室町時代の世田谷郷の領主・吉良家が勧請した最も立派な八幡社であった為「七沢八社随一」との掲額を掲げたものと言われ、「世田谷七沢・八八幡」はこの掲額によると言われます。今回は、その七沢・八八幡をご紹介します。


「世田谷七沢・八八幡」の場所は、下図の通りです。


◆神社と「別当寺」◆

もう一つ大切なことは、神社には必ず隣に「別当寺」と呼ばれる寺院があり、これも郷土史を伝えるのに重要な役目を果たしてきました。「別当寺」とは聞きなれない言葉ですが、元々日本人は「やおよろずの神」即ち「神社」を敬ってきました。そこへ538年に仏教が伝来しできましたが室町時代迄の仏教はまだ京都の貴族や一部の豪族や富農のものでした。

ところが、江戸時代に入ると、徳川幕府はキリシタン防止と一般庶民の履歴の詳細調査の為、各町村の「鎮守様」の隣に、その頃にしてはお経を読む必要上「読み書き」が出来る「僧侶」と寺院を配置して、現在の区役所の様な仕事をさせ、これらのお寺を「別当寺」と呼びました。現在でも大抵の神社の近所にお寺があるのは、その為です。その後も我々の祖先は神社や仏閣を大切にしてきましたので、そこを調べると色々な時代の歴史や人物が浮き出しになってきます。

因みに、世田谷の八八幡に例を取ると、神社と別当寺の関係は次の通りです。

郷土史を調べる時は、神社や寺院をキーワードにするのが最も効果的です。今回は、「八八幡」と「別当寺」をキーワードにして、「世田谷七沢・八八幡」から「世田谷の郷土史」を探って見ましょう。

では最初に、「八社随一・北沢八幡」から説明しましょう。


① 北沢八幡神社

北沢八幡神社は、今から約500年前の文明年間(1,469~87年・足和義政の時代)に、世田谷北辺の守護神として、当時の世田谷城主であった吉良頼康が勧請したと伝えられる神社です。吉良氏所領の頃は、その立派さを「世田谷七沢八社随一」と言われ、早くより北沢村の中心でもあり、以前から「北沢川」の川沿いにあった「産土社」を、更に立派な「八幡神社」にしました。

江戸時代になると、慶安3年(1,650)に時の知行・斉藤摂津守から、「八幡宮領、7石4斗は前々の如く寄進せしむ」との黒印状があったと言われます(写しを地元の旧家が保存)。

現在の本殿である「北沢八幡社」は嘉永5年(1,852)の創建ですが、明治8年の神社明細簿によると、当時は境内2,700坪、本社と拝殿があったとされます。その後明治26年に神楽殿の新築、大正9年には幣殿、拝殿は新改築されました。現在も1,600年代の古い額や石灯篭(宝暦12年・1,762年)、狛犬(嘉永5年・1,852年)などが残されています。

祭神は、応神天皇・神功皇后・比売神・仁徳天皇と産土大神です。現在、1,370坪余りの境内には、弁天社、野屋敷稲荷、円海稲荷など(付近から移設)が合祀されています。秋の大祭は、9月の第一土・日曜日に行われ、本祭には、茶沢通りに勢揃いした30基近い神輿が賑やかに街をねり歩き、祭りを盛り上げています。

北沢八幡 拝殿

① -2 北沢八幡別当寺・森巌寺

慶長13年(1,608年)創建の浄土宗の寺院で、本尊は、阿弥陀如来立像と観音菩薩、勢至菩薩を脇侍とする阿弥陀三尊です。開基は徳川家康の次男・結城中納言秀康で、秀康逝去の際に、自分の位牌を収めるための寺を建立する様委嘱された存廓和尚が、翌年この地に当寺を開き、浄光院森巌寺と称しました。隣の北沢八幡宮の別当寺でもあったので、山号を八幡山といいます。

存廓和尚は、持病の腰痛に悩まされていましたが、ある夜、故郷の淡島明神が夢枕に立って、お灸することを霊示し、その灸により腰病から救われたので、紀州の淡島明神を森巌寺に勧請しました。それから腰痛に悩む人々の為に灸を始めたのですが、この淡島の灸は大変良く効く事が評判となり、関東一円からも泊りかけて人々が来る程有名になりました。今でも山門には「お灸の淡島明神」の札が掛かっています。祭神は少彦名命で、農業、牧畜、土木の改良や医療に尽力した神ですが、針仕事の上達にも霊験があると言われ、江戸時代から針仕事上達を願った針供養石碑があります。

森巌寺 仏殿

② 代田八幡神社

北沢の支流・代田沢の河畔にある此の神社は、室町時代末に世田谷城主・吉良氏朝没落の時、家臣であった七人の武士たち(代田七人衆)がこの地で帰農しましたが、天正19年(1,591年)頃、八幡神(応神天皇)を崇敬していた秋元氏の発起によって、世田谷八幡宮より八幡様を勧請して鎮守としたのが創建といわれています。その後、天和元年(1,681年)に、七人衆が往みついた本屋敷の真北の台地である現在の地に新社殿が建立されました。その後、明治6年(1,873年)に、石垣、大鳥居、獅子、灯篭を新調し、翌7年には村社に指定されました。

しかし、翌明治13年10月の大暴風雨によって、本社から末社まで壊滅してしまったのでしたが、土地の人々の尽力で、明治20年10月15日には神殿、拝殿、大鳥居などを建造、遷座式を行ないました。関東大震災の時には、再び大鳥居が倒壊し、また第二次世界大戦では5月25日の空襲で、全てが焼失しました。現在の建物は神殿が昭和23年、神楽殿、参集殿は昭和35年の造営です。また、昭和30年代になって、環状七号道路工事のため境内の一部が道路用地として削られる等、災難の多かった神社と言えます。代田八幡神社の大祭は、9月の第三土・日曜日です。末社として境内の一角には、御嶽神社、稲荷神社、三峯神社が祀られています。

代田八幡 社殿

② -2 代田八幡別当寺 円乗院

このお寺は、代田村村を開村した代田七人衆の子孫によって建立され、江戸時代の初め頃に造られたもので、真言宗新義派で世田谷勝国寺の末寺にあたり、代永山円乗院真勝寺と称します。境内は約3,000㎡余り、本尊に不動明王を祀り、そのほか弘法大師、興敷大師木像、地蔵尊、毘沙門天、十一面観音、薬師如来像が安置されています。

戦前の本堂は戦災によって全て焼けてしまい、現在の本堂は、昭和49年に台東区橋場の総泉寺(秋田藩主佐竹氏の菩提寺)から移築したもので、観音堂は昭和29年に造られたものです。戦前の境内には、高野マキの老木と、樹齢300年といわれるサルスベリの大木があって夏の花の頃は見事だったと言うことですが、これも戦災で焼失しその枯れ木(焼木)が今も残っています。又この寺には、天保年間(1,830~43年)から伝承されている代田独得の餅つきや、餅つき唄が、代田・三土代会により保存されて居り、この代田の餅つきは、六人搗、八人搗と言う曲搗きで、毎年1月15日に円衆院で披露されています。


円乗院 境内(焼けたサルスベリの大木)

③ 駒留八幡神社

駒留八幡神社は三軒茶屋で、二またに分かれる北側の大山道(現世田谷通り)と、南北に通じる。

堀之内道(現環状七号線)の交差する西南の地にあり、直ぐ南の蛇崩川沿いにあります。現在の「蛇崩川」は、昔は世田谷では「馬引沢」、下流の目黒郷では「蛇崩川」と呼ばれていました。その川の名称のいきさつに就いては、次回の「馬引沢緑道の散歩道」で詳しくお話しいたします。

この神社が駒留八幡と名づけられたのは、鎌倉時代の徳治3年(1,308年)にこの付近の地頭であった鎌倉北条家の一族の北条左近太郎が八幡宮を勧請(神仏の分霊を請じ迎えてまつること)する為、馬の留まる所を鎮座の地にしようとして馬を歩かせた所、馬がこの地に留まったので、ここに社殿を建てたと伝えられています。その後天和2年(1、682年)社殿造修の折には、神像の背部に「最明寺時頼公本尊、経塚駒留八幡宮、北条左近太郎入道成願奉安鎮所、徳治三戊申年十月二十三日」と記されたものが出土しました。

祭神は天照大神、応神天皇で、本殿のほかに常盤弁財天(厳島神社)、鷲神社、三峰神社、菅原神社、榛名神社、稲荷神社が合祀されています。この内常盤弁財天は今から500年余り前、世田谷城主吉良頼康の側室で頼康の寵愛を受けた常盤姫が、他の側室からねたみを受けてついに殺される羽目になりますが、その後疑いが晴れて弁財天として祀られたもので、その時常盤の胎児の霊をこの八幡宮に祀った事から、ここを若宮八幡とも呼ぶようになったということです。

江戸時代には、この境内の南を馬引沢が流れていて、弁才天は川のほとりの池の中島に祀られていたと言います。現在の弁天堂の中には、琵琶が祀られていますが、可なり年代の旧い物です。

お祭りは昔は10月14、15日で、芝居小屋が掛かり、沢山の店が出て賑わいました。また神輿は子供用と大人用のものがありました。現在は祭礼は10月の第3土曜、日曜日になっています。このほかにも、初詣や4月13日の常盤の命日に当たる常盤弁天供養、七五三参りなどの行事が行われています。

駒留八幡神社 社殿

④ 深沢神社

深沢神社は、世田谷七沢の4番目「深沢」沿いにあり、創建は、室町時代中期の永禄7年(1,564年)足利幕府の命で此の地の代官となった谷岡重頼が、領地の一つの伊豆国の鎮護・三島神社の分社としてこの地に奉移したのが始まりで、初めは三島神社と呼ばれていました。その後明治42年6月には、深沢村にあった神社の、神明社・稲荷神社・山際神社・八幡神社(以上深沢下地区)と・三島神社・御嶽神社・天祖神社・稲荷神社(以上深沢上地区)の8社を三島神社の位置に合祀して深沢神社となりました。

祭神は、大山都見命(三島神社)・天照大神・倉稲魂命・日本武命(御嶽神社)・応神天皇(八幡神社)を祀り、その他、厳島神社(市杵島姫命・弁財天)を境内の池にお祀りしてあります。昔はこの境内の下に、広い三島池がありました(現在の区立幼稚園のあたり)。この池には三つの島があって、この奥の島に弁財天が祀られていたのですが、今は区画整理により池はなくなり、弁才天は崖の中腹に祀られています。

社殿と鳥居は大正5年(1,916年)頃に一度建てかえられた後、さらに現在の社殿は昭和41年(1,966年)に新築されたものです。

深沢神社 拝殿

④ -2 深沢神社別当寺 医王寺

医王寺は、昔の深沢村のほぼ中央部(現駒沢通りと駒沢公園通りの交差点近く)にあって、真言宗智山派満願寺の末寺、薬王山・宝寿院と号するお寺です。創建は江戸時代初期の寛永2年(1,625年)に谷岡又左衛門尉庸重(つねしげ)によって開基、僧正・霊応によって開山されましたが、宝暦11年(1,761年)に本堂から出火して、薬師堂を除いて他は全部焼失してしまいました。時の憲勝和尚はその責任を感じて、その後観音像を背負って3年間托鉢して廻り、付近の住民の協力も得て寺を再建したのでした。寺のご本尊は大日如来ですが、托鉢した時に背負った観音像は本堂の横の観音堂に安置されています。

医王寺では、幕末の慶応2年(1,866年)から明治4年(1,871年)まで、当時の住職知教によって寺子屋教育が行われました。当時生徒は30人余りでしたが、その後、明治11年(1,878年)からは、荏原小学校の第二分教場として40人の子供たちが学ぶなど、教育の場となってきました。現在山門の前には、「深沢小学校発祥地」の記念碑が残されています。

このすぐ横にあるお地蔵様は「雷地蔵」と呼ばれ、村を守ってきたお地蔵様です。その昔、農家の庭のケヤキの大木に雷が落ちて沢山の家が焼ける事故が起きた時に、人々はこのお地蔵様に雷が落ちない様にとお線香をあげ、そのもえ残りのお線香を家に持ち帰って縁側に立てるようになりました。それから深沢村には雷が落ちなくなったという事です。

昭和20年には、戦災によって境内は総て焼けてしまい、今の建物は昭和30年代に鉄筋コンクリート造りによって再建されたものです。

医王寺 境内

⑤ 奥沢神社

現在の奥沢は、東は目黒区・石川町に接する奥沢1丁目から西は等々力町に接する奥沢8丁目迄の広い区域ですが、明治以前は前回の「奥沢42村」の所でお話しした様に、東の小さな奥沢村と西の広大な奥沢新田村に分かれ、その北の端を「奥沢」と呼ばれた現在の「九品仏川(緑道)」が流れていました。

現在は奥沢町の鎮守は奥沢神社ですが,この神社は以前には八幡神社と呼ばれ奥沢新田村の鎮守でした。明治42年10月に,八幡神社は奥沢本村の鎮守であった子安稲荷神社を合祀して後,社名を奥沢神社と改め現在に至っています。八幡神社の創立は,室町時代に吉良氏の家臣大平氏が現在の九品仏のある土地に奥沢城を築くに当り,世田谷郷東部の守護神として八幡神を勧請したものと伝えられ、周囲を囲む6尺余の瓦積塀は出城だった事を物語っています。奥沢本村鎮守の子安稲荷神社は、現在、奥沢小学校に傍に跡地だけ公園として残っていますが、創立年代などは不明です。

奥沢神社の祭神は,誉田別命(八幡大神)と宇賀魂神(稲荷大神,合祀された子安稲荷神社の祭神)の二柱です。その他境内社として弁財天社が祀られていますが、この社碑は,奥沢駅南方100mの清水池に鎮座していたものを昭和25年に移したものです。石碑には文政4年(1,821年)奥沢本村の領主及村民によって創建されたと記されています。この湧水池は奥沢弁天池と呼ばれ,ここに住む白蛇が奥沢の田畑を潤わせていたといわれていますが,現在では商店街となってしまい昔の面影は全くありません。昭和47年には弁天社を現在の築山風に造園されました。

その他、世田谷の祭礼としても有名な「大蛇のお練り」は、毎年9月の第1日曜日に行われています。

奥沢神社 拝殿

⑤ -2 奥沢神社別当寺 九品仏浄真寺

九品山・唯在念仏院・浄真寺は、東急・九品仏駅前にあり、中世に大平出羽守が築いた奥沢城址に建てられた有名なお寺です。

浄土宗京都知恩院の末寺で、延宝6年(1,678年)珂碩上人が四代将軍徳川家綱からこの地を賜って創建したお寺で、芝の増上寺の別院でもあります。本堂にはご本尊に巨大な一丈六尺(4.85m)の釈迦牟尼如来(座像)を中心に、右に善導大師像、左に法然上人像が安置されています。またこの西向きの本堂に対して、東向きに中央は上品堂、北側に中品堂、南側に下品堂と三仏堂が並び三体ずつ九体の阿弥陀如来像が安置されていて、この九体の仏像から九品仏と名付けられました。この他、開山堂には珂碩上人自彫りのご尊像(42歳の時のもの)が安置されています。

本堂の釈迦牟尼如来をはじめ、九体の仏像、梵鐘はいずれも都指定有形文化財に指定され、また境内には都指定天然記念物のイチョウと樹齢七百年といわれる大きなカヤの木があり、世田谷の花でもある鷺草園(昭和初期迄この辺りに自生していたという)がある等、見どころの多いお寺です。

このお寺では有名な「お面かぶり」が3年に一回、8月16日に催され、都の無形民俗文化財にも指定されています。この行事は、本堂と上品堂の間に幅の狭い一条の橋をかけて、西向きの本堂を此の世、東向きの上品堂をあの世に見立てて、この橋を一回目は二五菩薩だけで渡り、二回目、三回目は現世と来世の間を開山上人の御厨子と仏や、菩薩に扮した男女信者が渡ります。火の河、水の河におびやかされながらも清い心で進めば道が開けるという教えに基づいて行われるものです。またこの日、第二世珂憶上人筆の「南無阿弥陀仏」と書かれた大掛け軸を本堂前に虫干しすると、その下の芝生が字の通りに枯れるといわれています。

九品仏浄真寺 本堂



⑥ 上北沢八幡神社

北沢川には、下北沢とこの上北沢の二つの八幡様があります。この神社の創建は八八幡の中で最も古く、平安中期の万寿3年(1026年)に京の石清水八幡宮より祭神応神天皇の分身を勧請して造られたと言われています。地元の人々はこの神社を勝利八幡と呼んでいますが、それは明治以後の戦争の都度その勝利を祈願する為に人々がお詣りをしたことによるもので、創建当時は粗末な小きな祠にすぎなかったものだろうといわれています。

時代は下って、元禄5年(1,692年)の秋には、土地の代官・榎本市右衛門信親の発願によって新たに造営が行われ、同9年秋に落成した記録が残されています。その旧社殿は境内の奥の方にあった築山の上に祀られていましたが、「新編武蔵風土記稿」の記録によれば、本社は2間四面、土をもり上げて社を作り、前に石階15段を設け、数歩離れた場所に鳥居が建てられたと記されていますが、その社殿が現在も境内入口ある小堂の中に保存されて居り、世田谷で残された最も古い社殿建築物です。

現在の新本殿は昭和43年に建立されたものですが、この他、末社として山谷稲荷と天祖神社(お伊勢様)が昔の社殿のまゝで残されています。祭礼は昔は9月18日、19日に行われていましたが、現在は10月10日になりました。祭礼の時は出店も並び、宵宮には近くの村ばやしが来てもり上げ、地元のおはやし連中も夜通し奉納しています。また景気のよい年には、神代神楽や、芝居小屋が掛かることもありました。

上北沢八幡神社 拝殿

⑥ -2 上北沢神社別当寺 密蔵院

密蔵院の創建は、下野国都賀郡水代城主の榎本重泰・氏重親子が故あって天正8年(1,580年)にこの地に居を定めたのを、後に同じ下野国都賀の頼慶法師が尋ねて来たことによります。 この地の地頭をしている鈴木重貞も頼慶法師に会った後、深くこの法師に帰依し、重貞は懇請して当時無住の観音堂の住職としました。慶長3年(1,598年)、重貞の子鈴木但馬守定宗の代になって、この観音堂を再建して一寺として世田谷村勝国寺に帰属、ここに頼慶法師の開山で新義真言宗豊山派 幽谿山密蔵院観音寺が創建きれたのです。

お寺の本尊は不動明王立像で、その他正面に十一面観音立像が安置され、境内から墓地の入り口の所には六地蔵も祀られています。また本堂の左側の「百体観音堂」には、信者達が関東一円から集めた、何れも30Cm前後の観音菩薩像が約100体祀られていて、世田谷でも余り有名はありませんが、これだけ見事に寸法の揃った観音像群は他にはなく、大変に貴重なものと思われます。

元禄15年(1,702年)以降は、世田谷村の勝国寺から離れて江戸の護国寺末寺となりますが、正徳3年(1,714年)にはこの上北沢村は増上寺領として管理されることになりました。その後本堂は延享元年(1,744年)に、鈴木、榎本両家をはじめ、村人の寄進によって新築されました。また密蔵院南入口には二体の庚申塔がありますが、いずれも青面金剛像と三猿を刻んだもので、大きい方は高き136Cm幅57Cmで、元禄3年庚申年(1690年)12月4日と記されており、これも大変に貴重な遺跡です。

密蔵院 本堂

⑦ 廻沢八幡神社

世田谷七沢の最後の「廻沢(めぐりさわ)」は、現在の「烏山川」中流を往時は「廻沢」と呼んでいました。現・粕谷1丁目、環状8号道路に沿った「蘆花公園」の北東端に、この「廻沢八幡社」があります。然し、この廻沢地区を昭和46年に環状8号道路が完成した時に区画整理が行われ、

「廻沢」の地名が消失して「千歳台」に変わってしまい、現在は僅かに小さな通りの名前だけとなり、この「廻沢八幡「も「粕谷八幡」と社名を替えて仕舞いました。

神社の創建は不明ですが、1,590年以後、土地の豪族・粕谷兼時の館がこの辺にあって八幡様を守護神にしていたと伝わることから、室町末期であったと考えられます。祭神は誉田別命で、天保6年(1,835年)建立の石鳥居と、文久銘(1,861~63年)の古い手水石も残されています。また神社の入口には一本の杉の大木があって、当時徳富芦花がこの杉の下で訪ねてきた人々をよく見送ったので、「別れの杉」と名付けられました。現在この別れの杉は二代目になり、根元から5メートルばかりを残して、当時の面影をとどめています。そして、まだ芦花の存命中は、この神社から一面の田んぼや、遠く西の仙川の流れ、石橋までも望むことができたとの事です。

社殿は明治14に改築されて間口2間、奥行3間4尺の本殿が造られ、さらに大正14年には老朽化した社を改築して本殿、奥殿が完成しました。当時の境内の敷地は186坪でした。例祭は現在、10月10日宵宮、11日に本祭が行われています。

これで、「世田谷七沢」を総て巡った訳ですが、七沢のうち上北沢迄はほゞ確定していますが、最後の七沢目は「廻沢」の他に「池沢」「馬引沢」を上下に分ける等の諸説があります。私は各種の資料から「廻沢」としましたが、その事もどうぞご承知おき下さい。

廻沢八幡神社 境内

⑦ -2 廻沢八幡別当寺 東覚院

東覚院には何回も通うちに、確か3回目だったでしょうか住職から由緒書でもある「薬師如来縁起」のコピーを頂きました。それに依ると、当寺の創建は鎌倉時代中期の正応元年(1,288年)に大和長谷寺より月空という廻国の僧が来て、この地に草庵を結んだのが発祥といわれています。その頃の当地は広々とした原野でしたが、その後室町末期の永禄元年〈1,558年〉には大願寺と号して、民家も此処かしこに見られました。ご本尊は3寸6分(約11.5Cm)の薬師如来で駿河国・富士山の薬師ケ岳より請来の尊像です。その由来は平安時代の弘仁9年(818年)の春、京都で大疫病が流行った時に、嵯峨天皇の命により弘法大師空海が彫って富士山の薬師ケ岳の祠に安置し、嵯峨天皇も般若心経を書写してこの祠に収めると、疫病は忽ちにして収まったという霊験あらたかな仏像です。

その後400余年を経て、武蔵国、玉川の辺りの氷川明神の神主河野氏が如何なる因果か両眼を失明し、どの様な医者に罹かっても効果が無かったので、最後に氷川明神に断食三七日の願をかけた所、ある夜夢の中に氷川明神が現れて「駿河国富士山の薬師如来にお願いせよ」とのお告げがありました。彼は歓喜して早速薬師ケ岳の霊場に登り食を絶って祈るうちに、ある夜夢に菩薩が現れて「我、東に有縁の地あり、汝供奉して彼の地に我を遷さば、たち所にやまい平癒すべし」とお告げがあったのです。彼は直ちに東国に帰ると、半日もしないうちに両眼が見える様になりました。病も癒えて身心堅固となり、此の様な有難い尊像を祀る土地を探していると、近辺の廻沢といふ所に不思議な霊地がありました。

此の地は、東は舟の艫(とも)の形で、中程は広くて西へ行く程狭くなって舟の舳(へさき)の様でした。これは東方浄瑠璃世界から西方極楽浄土までの「弘誓(ぐせい)の海」に浮かぶ舟型の霊地に似ていて、そこに古い寺院があり門前と裏を清流に囲まれた「廻沢」という地名だと聞き、この地こそ尊像を安置出来る霊場であると悟り、此処に尊像を祀って、青林山薬王寺東覚院と号しました。

その後寛永年間(1,624~43年)に僧源清が中興して以後は、明治初期に至る迄、廻沢八幡、廻沢稲荷、八幡山八幡社の別当寺をも兼務し、寺小屋を開いて子弟の教育にも力を入れ、近隣の多くの人々からも信仰を集めていたと言われます。

東覚院 境内

8番目いかがでしたでしょうか。「七沢八八幡」それぞれに、言われもあり、より世田谷の歴史に興味が湧きますね。

皆さんも「七沢」にのっとって、独自の「世田谷七つの散歩コース」を開拓するのもいいかもしれません。

8番目の「世田谷八幡」は、前回詳しく解説しましたので、今回は省略いたします。

大分長くなりましたが、「世田谷七沢・八八幡」をご理解頂けましたでしょうか。


東京散歩

郷土史家・酒井東海雄が、世田谷やかつての江戸など、日頃歩いている散歩コースと土地にまつわる歴史をご案内します。

0コメント

  • 1000 / 1000